平安時代後期、藤原氏や平氏などの権力者からの依頼で仏像制作をしていた京仏師・院派と円派は隆盛を極め主流となっており、奈良仏師は、傍流として軽んじられていたようです。
鎌倉幕府の成立により、権力を得た東国武士は、平氏への反抗勢力であった興福寺を拠点に活動する奈良仏師に注目しました。
京仏師の作る優雅な貴族趣味の仏像よりも、質実剛健を旨とする武家の感性が、運慶ら奈良仏師の作る力強い作風を好んだとされています。
また、源頼朝の舅・北条時政は、京都の下級貴族で、興福寺に有力者の姻戚がいたことから、興福寺や興福寺を本拠としていた奈良仏師との繋がりが生じたのではないかといわれています。
運慶と父・康慶の一門が、鎌倉幕府と関係が結ばれたことで、東国(関東)でも
活動することになったものと考えられています。
伊豆では多くの慶派の仏像を鑑賞することができます。